学生が運営する社会人サッカーメディアCamffice。
今回は、恵比寿にオフィスを構える株式会社PQDの代表取締役・加納隼人氏に話を伺った。ホテル運営を軸に、飲食事業など多角的に展開する同社。その裏側には、サッカー、海外、そして数々の挑戦の中で培われた独自の価値観がある。本記事では、そのキャリアと意思決定、そして人となりに迫る。

プロフィール
加納隼人
37歳(取材時)
株式会社PQD代表取締役
――本日はよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
――まず、加納さんの人生や生き方に対しての考え方の根底にあるものは何でしょう?
そうですね…一言で言うと「人生はサバイバル」だと思ってます。どこまで行っても結局それだなっていう感覚があって。
日常でも仕事でも、常に危機感はありますね。
何か問題が起きたときもそうですし、これから起こりそうなことに対しても、割と敏感に反応するタイプだと思います。で、そのときに必ず考えるのは「自分でどうするか」で。誰かが解決してくれるのを待つんじゃなくて、自分で動かないと何も変わらないなっていう感覚があります。逆に言うと、そういう問題自体が成長のきっかけになるとも思ってます。あとは、あえてちょっと厳しい環境に自分を置くこともありますね。その中でどうやって乗り越えるか考えるのが、結構好きなんですよ。
――どのような幼少期を過ごされましたか?
かなり元気な子どもだったと思いますね。外で遊ぶのが好きで、レンジャーごっことかよくやってました(笑)。小学生のときにJリーグが始まって、その流れでサッカーを始めました。そこから高校まで、ほぼずっとサッカー中心の生活でした。中学までは割と順調だったんですけど、高校に入ってから一気に通用しなくなって。それまでやってきたスタイルが全然通用しなくて、試合にもほとんど出られなかったです。高校サッカーが終わる時にサッカーが嫌いになってしまって、サッカーから離れました。やりたいことがなくなり正直、「自分はこの先どうなるんだろう」と思うこともあって、そのときの挫折感や悔しさは今でもかなり覚えてますね。
――そこから中国語を学ばれたのは意外です。
そうですね。当時は正直、やりたいことも特になくて、将来のこともあまり考えていませんでした。サッカーも思うようにいかなくて、「自分は何をやりたいんだろう」と少し迷っていた時期だったと思います。サッカー以外で何か新しいことをやってみたいな、くらいの感覚でした。母親に勧められて中国語の大学に進んだんですけど、最初はなんとなくでしたね。ただ、最初の発音の授業で岡部先生に発音を褒めてもらったことがあって、それがすごく嬉しくて。その後、先生の研究室に呼ばれて「お前をスピーチコンテストに出したい。一緒に特訓しないか」と言われて、かなりテンションが上がりました(笑)。そこから一気にハマりました。高校のときは、自分は認められていない、否定されてきたと思い込んでいた部分があったので、あの一言には本当に救われました。
人って、誰かに認められることでこんなに変われるんだと実感した瞬間でした。
2年生のときに北京に留学して、海外の雰囲気とか、いろんな国の人と関わる中でかなり刺激を受けました。海外にいると、良い意味でも悪い意味でも日本の常識とは違うことがしょっちゅう起こります。その中で、自分なりに解釈して受け入れたり、違うと思えば拒否したりしながら、物事に向き合っていました。その後も3年生のときに大連に行って、大学卒業後も大連の大学院に通いながらホテルで働いていました。結構長い期間海外にいました。この経験は、今振り返るとかなり大きかったと思いますね。

(大連留学中の一枚。)
――そのあとドイツでサッカーに挑戦されていますよね。
そうですね。高校のときの後悔がずっと残ってて。正月に高校サッカー見てると、なんか悔しくなって涙出てくるんですよ(笑)。それで「もう一回ちゃんと向き合わないとダメだな」と思って、ドイツに行く決断をしました。正直、不安もありましたし、「本当にうまくいくのか」という気持ちもありました。親からはかなり反対されましたね。「普通に就職した方がいいんじゃないか」とか。でも、自分の中では、そのまま流されて人生が進む方が嫌だったので。最悪失敗しても、帰ってきてバイトすればいいかな、くらいの感覚でした。
――実際のドイツでの生活はどうでしたか?
最初はかなりきつかったですね。怪我もあって、エージェントからは「自分でなんとかしろ」と突き放されて。
デュッセルドルフに移動して、日本人のつてを頼って、寮の廊下で寝泊まりさせてもらったりもしました(笑)。そのあとボンという街に移って、アルバイトでなんとか生活基盤を作って。そこからは本当にサバイバルで、「どうやったらチームに入れるか」を自分で考えて動いてました。気になるチームの試合を片っ端から見に行って、試合が終わったら監督のところに行って、つたない英語で「日本からサッカー選手を目指して来ました。あなたのチームに入れてほしいです。練習に参加させてください。気に入ったらチームに入れてください。」と直談判して。最初は「なんだこいつ?」みたいな反応をされることも多かったんですけど、それでも食らいついて声をかけ続けました。
正直、何度も心が折れそうになりましたけど。
その中で、ある監督がチームキャプテンを紹介してくれて、「日本人の彼をチームの練習に連れてきてくれ」と伝えてくれて。周りの人に少しずつ助けてもらいながら、ようやく練習参加の機会をもらってチームに所属させてもらうことになりました。結果的には怪我もあって試合にはあまり出られなかったんですけど、このプロセスをやり切ったことで、サッカーに対する後悔は完全になくなりましたね。

(ドイツでの挑戦中の1枚。)
――ドイツに行く前の意思決定も含めてですが、衝動的に動いているようでいて、どこか現実的な視点も強く感じます。行動したときの振れ幅や、最低限何を確保するかといった判断が、かなり明確ですよね。
そうですね。「リアリティ」という言葉が近いのかもしれないです。自分が動いたときに、最悪どうなるのかとか、どこまでなら許容できるのかは、ある程度イメージしています。その上で、「じゃあ行くか」という判断をしている感覚ですね。あと、少し相反するように聞こえるかもしれないですが、ドイツに行ったばかりの頃は、自分のせいでもあるんですけど、たらい回しにされたり、予期していないことに直面したり、結構危機的な状況になることも多くて。ただ、そういう状況って、どうやって解決するかを考えるのが結構楽しいんですよね。むしろ、自分でそういう環境に入っていっている部分もあると思います。その危機的な状況を一つずつ乗り越えていく中で、いろんなやり方を覚えてきたというか、それが今の自分のベースになっている感覚はあります。本来、人ってずっと安全な環境にいられるわけではないと思っていて、
追い込まれたときに「なんとかしないといけない」という生存本能が自然と働くと思うんです。
少し大袈裟かもしれないですけど、そういう感覚に触れる経験を重ねてきたことが、今の自分をつくっている大きな要素だと思います。
――Airbnbとの出会いもその頃ですよね。
そうです。中国人の友人のホームパーティーに呼ばれて彼の家に行ったときに、「Airbnbで2部屋は旅行客に貸してる」って話を聞いて。なんだそれ面白いなと思って、それなら自分の部屋でもできるんじゃないかと考えて、自分の1Kの部屋のソファを1泊10ユーロで貸してみたんです。そしたら普通に予約がたくさん入って。いろんな国の人が泊まりに来てくれて、すごく面白かったです。この体験が、今の事業の原点になっています。

( 加納氏が実際に一泊10ユーロで貸していたソファー)
――帰国後、どのように事業につながっていったんですか?
ドイツでサッカーを辞めてから、自分は「人の可能性を応援するように生きていく」「人の可能性を潰さないように生きていく」と心に決めていました。大学の先生の一言や、ドイツで宿泊してくれたゲストからの応援の言葉があって、ここまで来られたという実感もあり、自分も人の可能性を開く側として生きていきたいと思ったんです。最初はそれを実現する手段として、なんとなくバーをやりたいと思っていました。来てくれた人の話を聞いて、悩んでいる人に少しでもアドバイスできたらいいなと。ただ、開業に2000万円くらいかかると仲の良いマスターから聞いて、それは現実的ではないなと感じて。「思いを広めていくこと」と「経済面を豊かにしなければいけない」という2点はセットだなと思いました。そこで、ドイツでのAirbnbの経験を思い出して、日本の物件を調べてみたら「収益が出るかもしれない」と思えたんです。それと同時に「Airbnbで自分は可能性を広げられたし、この事業を通して自分の思いを広めていけるんじゃないか」と思いました。それで、貯めていたお金で新宿に1室借りて始めたのがスタートですね。
――そこからどのように広がっていったのでしょうか?
更に自分で物件を拡げていきたかったんですけど、お金もなかったので、自分で賃貸して物件を増やしていくのは難しくて。
なので、他のAirbnbをやっている人に営業して、清掃やカスタマー対応などの運営を受託する形にしました。
当初は個人でやっていたのでコストもほとんどかからないですし、地道に改善を続けていけば、価値は出せると思っていて。最初はうまくいかないことも多かったですけど、少しずつ業務の質も上がり任せてもらえる件数が増えていきました。その中で、紹介で広がったり、信頼して任せてもらえるようになったりして、気づいたら事業として成り立つようになっていましたね。
――そこから現在の会社へとつながっていくんですね。
そうですね。気づいたら売上も伸びていて、2019年頃には1億円を超えるようになっていました。ただ、そのときも順風満帆だったわけではなくて。大手企業と関わる機会が出てきたときに、「個人だと難しい」と言われることもあって、そこで初めて法人化を考えました。自分としてはあまりこだわりはなかったんですけど、関わる人の幅を広げるために必要だなと。そこから会社を設立して、少しずつ社員も増やしていきました。
――順調に拡大していったのでしょうか?
最初は比較的順調でしたね。ただ、宿泊業界としては大きな波が2回あって、民泊新法とコロナです。コロナのときは、正直かなりきつかったです。稼働も一気に落ちましたし、「このままどうなるんだろう」という不安もありました。ただ、その中でも「今なにが現実として起きているか」と「どうやってキャッシュを残すか」はずっと見ていました。無理に攻めるのではなく、一度引く判断をしたり、固定費を見直したり。一方で、回復したときにすぐ動けるように準備もしておく。
そういう判断を積み重ねて、なんとか乗り越えたという感じですね。
結果的に、今は宿泊事業を主体にして、売上でいうと15億円ほどの規模にはなっています。

(加納氏の経営する株式会社PQDの社内風景)
――これまでの経験がすべて繋がっているんですね。
そうですね。正直、最初からここまでを見据えていたわけではないです。ただ、その時々で自分と向き合って、選択して、行動してきた結果が、今につながっているという感覚はあります。一つひとつの経験は小さいかもしれないですけど、それが積み重なって形になっているのかなと思います。
――今後のビジョンを教えてください。
2029年までに宿泊事業で売上70億円くらいは目指したいと思っています。そのためには、今のままでは足りないので、事業もさらに広げていく必要がありますし、新しいことにも挑戦していく必要があります。海外も視野に入れていて、ブラジルかメキシコにCS(カスタマーサービス)の拠点をつくることも考えています。
自分としては、アクションを起こして何かを生み出すことが好きなんですよね。
なので、この新しい事業展開や新しい領域に挑戦することは止めずに続けていきたいと思っています。もちろん、経営者として利益を出すことは大前提なので、そこはリアリティを持って判断していきます。
――社会人サッカーの支援についても教えてください。
きっかけはシンプルで、(株式会社バンデリエ代表 )幸太郎が好きだからですね。
結局、人だと思っていて。
彼のやっていることや姿勢を見ていて、応援したいと思いました。ただ、それだけではなくて、責任ある環境が人を成長させるとも思っていて。スポンサーが入ることで、選手の意識も変わるんじゃないかと考えていました。実際に支援した年に昇格もしたので、少しは意味があったのかなと思います。今後は、もっと本質的な価値をお互いに出し合える関係にしていきたいですね。

(下段左から2番目加納氏、上段左から3番目幸太郎氏)
――最後に学生へメッセージをお願いします。
サバイバルしてほしいなと思います。ただ、一人で頑張るというよりは、いろんな人と出会いながら挑戦していってほしいですね。自分もそうだったんですけど、最初はうまくいかないことの方が多いと思います。
でも、その中で考えて動き続けていけば、少しずつ道は開けていくと思います。
周りの人との関わりの中で、自分も成長していけると思うので。その歩みは止めないでほしいですね。

## 取材を終えて
加納氏の言葉からは、「現実を見る力」と「行動し続ける力」が一貫して感じられた。ただそれだけでなく、その背景には人との出会いや支えがあり、それらが現在の意思決定や価値観につながっていることも印象的だった。サバイバルの中で培われた強さと、人との関係性の中で磨かれた柔軟さ。その両方を持ち合わせている点が、現在の事業の成長にもつながっているのだろう。
今回も最後までご覧頂き、本当にありがとうございました。
Camfficeでは、今後も「社会人サッカー」そしてそのコミュニティーに属する「人」に対して取材を行っていきます。次回も是非ご期待ください!!
↓本記事関連内容
株式会社PQDホームページ → https://pqd.co.jp
Air bnb 簡単解説 → https://tabiii.co.jp/what-airbnb/