第10回となる今回は、オーストラリアでのプレー経験を持ち、
現在はFC.BANDELIEで同じチームメートとしてプレーしている矢部純也さんにお話をお聞きしました。
・海外での生活に興味をもつ方
・海外でサッカー選手としてプレーしてみたい方
・環境を変えて勝負してみたい方
そんな方々が勇気を持って一歩を踏み出せるような内容の記事になります。
プロフィール
矢部純也 / Yabe Junya / 1994年8月1日 / 埼玉県出身
本庄第一高等学校 → 順天堂大学
→ ブリオベッカ浦安 → Wynnum Wolves (豪3部) → Ipswich Knights (豪3部)
→ Gold Coast United (豪2部) → Gold Coast Knights (豪2部) → Magpies Crusaders United (豪3部)
→ FC.BANDELIE
学生時代
プロサッカー選手という目標を掲げてサッカーに真剣に取り組み続けた学生生活でした。しかし、順天堂大学サッカー部に入部後、引き続きサッカーに打ち込んではいたのですが就職活動を始めるタイミングで猛烈に悩む時期がありました。サッカーで生きてはきたけれどもサッカーに自信を持ち続けられない自分がいて、しかしそれと同時にプロサッカー選手という職業に焦がれる自分もいました。プロになること企業に就職することという二つの可能性の中でもがきながらも同時並行でトライしていた時期でした。そうした状況の中でプロクラブの練習に1チーム参加するチャンスに恵まれることが出来たのですが、途中で体調を崩してしまい、やはり自分には縁が無いのだなと感じました。そこからは何となく普通の社会人になるのだろうなと考え、就職活動の方に完全にシフトチェンジし、人材派遣の企業に内定も決まりました。そんなタイミングで、結果として次の行き先となるJFLチームのブリオベッカ浦安の方からお話をいただきました。まだその当時、自分の中ではサッカーをやめる決心が付いていませんでしたし、自分を必要としてくれたという感謝の気持ちとそれに付随した縁を感じ、次の進路に決定しました。
海外を目指した経緯
ブリオベッカでの日々は難しいものでした。仕事とサッカーの両立を上手く行えず、ベクトルを自身ではなく外に向けてしまっている自己中心的な自分がいました。そういった姿勢になってしまっていたのもあり、試合にもそのシーズン4試合しか絡めずもがき苦しみました。そういった状況を変えるために、自分は結果として環境を変えるということを選びました。そこからチーム選びをしていくということになり、同じカテゴリーであったJFLチームにもコンタクトをとっていましたが、知り合いに話を聞いて海外のクラブにも興味を持ち始めました。そこから私は海外のサッカーに興味を持ち始めましたね。その時期私は率直な感情として、もし日本でプロになれたとしてもその舞台でさらに活躍している自分の姿を全くもって想像出来ませんでしたし、日本でサッカーをやるということに対して限界を感じてしまっていました。そういった心境の中で、自分の中からサッカーで上を目指すことを断ち切りたかったし、言い換えればそれは、サッカーをやめたかったということでもあります。それが一番の決め手となり海外に渡る決心をしました。
なぜオーストラリア?
他にも候補としていた場所はありました。知っていたエージェントのつてがあったので、ドイツ・中国・オーストラリアを候補地としていました。その中でオーストラリアを選んでいくプロセスとして、日本での経験から上はもう目指さないということはあったので、ドイツは真っ先に選択肢から消してしまいました。そうなると中国かオーストラリアどちらかを選ぶということになると思うのですが、決め手は言語でした。これから私が人生を生きていくにあたっても英語を習得しているということはとてつもなく意味があると思いました。オーストラリアに行くと決めてからはあっという間でした。なので、準備をする期間は全くなかったです。言語能力は0でしたし、オーストラリアがどういう国なのかということも知らなかったです。
あまり先を考えられない性格だったので楽しみであるという気持ちの方が強かったです。
オーストラリアでの経験
オーストラリアに渡ったのは、結局行くことを決めてから1ヶ月半後のことでしたね。正直初めてオーストラリアのサッカーを見たときの第一印象はレベルが高くないなというものでした。自分はオーストラリアでの初シーズンを3部でプレーしていたのですが、サッカーをやめるために海外に行ったとはいえ、やはり求めるレベルのリーグでやりたいと感じ、その次のシーズンからはカテゴリーを2部にあげてチャレンジしていました。2部で勝負し始めた2シーズン目からは、意識として自分が凄く変わった点がありました。それは、「自分が外国人としてチームに存在しているということ」です。それは、日本のクラブとは違い、自身が明確に外国人枠として存在しているということです。純粋にまわりとは違うということは、求められるレベルも違いますし、その特別さを常に出さなければいけないということです。それを言語が違う異国でやらなければならないという難しさとやりがいに私は楽しさを感じるようになっていきました。そこからは自分自身が言語も扱えるようになって、よりローカルな選手とも話せるようになる過程で自由が生まれていったという流れですね。
先ほど言ったようなモチベーションを保ちながら、サッカーに取り組んでいました。
刺激的な最後の半年間
オーストラリアには結局4年半いたのですが、最後の半年だけは他の年とは全く違うものになりました。それまで、自分はオーストラリアに居るとはいえ、日本人コミュニティーの中で生活している状況でした。そういった意味で言えば、完全にオーストラリアに住んでいるとは言えませんでした。言語や感覚的な部分で伸びきっていないと感じたので、最後の半年はあえて日本人のいないかなり田舎の街のクラブに移籍しました。3部のチームだったので、昇格のために必要とされているという使命感もありました。最初は、クラブでサッカーに関する意識の違いや価値観の違いで衝突してしまう苦しい時期が多かったのですが、本当に周りの方が優しく支え続けてくれました。街やクラブの温かさの中で過ごせて、だんだんとクラブでの状況も良くなっていきましたね。
これはオーストラリアにいる時に感じたことなのですが、様々な人種の人々が存在しますし、それぞれの人に価値観があります。生活やサッカーをしていく中でそういった価値観をむき出しにして伝えてこられた時に、そこに対して、自分が擦り合わをしていこうという柔軟性は、大切だと思いました。否定や肯定をするのではなく、そのまま飲み込んでいくようなイメージですね。
永住権をとろうということも考えたのですが、ビザの関係で日本に戻ることになってしまいました。
帰国して今思うこと
オーストラリアで過ごせた期間は自分にとって幸せなかけがえのない時間です。大きく価値観を変えられました。
オーストラリアに行く前、私は上昇志向の高い人間でずっとそこに対して執着していたのですが、今は自分の時間を大切にするようになりましたし、ただゆっくりするというか、家族との時間を大切にしたり自分のペースで生きるということも学びました。また、日本では、その環境に所属して自分が上手く輝けなかった時に全て自身に矢印を向けて追い込んでしまうことがあると思うのですが、オーストラリアではそういったときに目線を変えて自分の輝ける場所を探していくという考え方があります。自分らしく生きる、または、社会を循環させていく為にはそういった考え方も大切かなと感じました。そういった意味で、今自分は平和ぼけしてしまっている状況なのかも知れませんが、それだけ自分の中にゆとりが生まれました。
ぼんやりとですが、今はまた、仕事方面でも海外でやりたいなと思っています。
若い皆さんにも是非海外に飛び込んでいってほしいなと感じます。
「私たち」学生に向けたメッセージ
「様々なコミュニティーに属するということ」は大切だなと感じます。
それだけ多くのことを学べるということですし、新しい価値を育み続け、人として豊かになり続けていくことは本当に大切なことであると思います。
最後に「私たち」学生が感じたこと
衝動で生きてみるということも大切な価値観の一つなのではないかなと感じました。
「まずやってみる。行ってみる。」
そういった衝動的な行動が人生を大きく変える一つのきっかけになることもあるし、
私たち学生は勇気さえ持てば、どこにでも行けるし、何にでもなれるのではないでしょうか。